石川 新
ガイド・フォトグラファー・宮古島エバンジェリスト
Ishikawa Arata
秋田県秋田市出身。通称あらぴー。
18歳で地元を離れ東京に。東京ではホームレスで、どん底の生活も経験。
どん底の時に救われたのが、宮古島と宮古島の人々。
20年の宮古島の経験と、サーファーとして培ってきた海の経験。
フォトグラファーとしてだけでなく、海のツアーガイドしても活躍しています。
様々な人生を経験してきたあらぴーは、あなたと友だちになって、最高に楽しい宮古島を知って欲しいと思ってます。
ぜひ、あらぴー!と呼んでくださいね。
おふたりに楽しんでもらえることが一番嬉しい!
■壮絶な幼少期と青年時代。そしてどん底の経験。
東北の秋田県秋田市で生まれ育ちました。
子どもの頃は、親は片親で、ほとんど家にもいませんでした。
夜も近所のスナックに預けられたりするなどされていて、グレたりするときもありました。
かなり荒れていたと思います。
そんな地元に嫌気がさして、18歳で東京に出ました。
ただ、お金も仕事もない。新宿でホームレスをしていた時期もありました。
そのころは、自分が嫌いで、何も気力が起きなくて、死にたいと毎日思うのに、死ぬ勇気もなくて。
人生のどん底を味わっていました。
そんなある日に、地元の友人と偶然に出会いました。
友人は今の境遇の私を見て、ご飯をご馳走してくれました。
まともなご飯を食べれてなかった私は、居酒屋で白米を注文。その時の食べた白米を超えるものにまだ出会ってません。
その友人の家にも泊めてもらい、一旦地元に戻ることができました。
■海との出会いサーフィン。そして救われた宮古島。
荒れていた10代の頃、サーフィンと出会いました。
知り合いにサーフボードをもらったことがきっかけ。サーフィンに熱中していました。
海が好きになったのは、サーフィンに出会ったからです。
東京でホームレスをして地元に戻った後、海の綺麗な沖縄に行こうと思いました。
沖縄に行ったこともなくて、土地勘も全然なかったですが、とにかく行きたかった。
20年以上前の話なので、その頃は、宮古島市ではなくて、宮古郡。
実は、本当は沖縄本島に行くつもりで、離島に行くつもりはなかったんです。
何も知らなかったので、宮古行きの飛行機も、沖縄なら一緒だと思っていたのです。
まだ今のような、開発も観光化もほとんどされていない宮古島は何もなかったですが、とにかく人が温かった。
住み込みのバイトを見つけて、毎日楽しく生活していました。
子どもの頃から、ずっと寂しいと思い続けてきた人生でしたが、宮古島に来て初めて寂しくなかった。宮古島の人たちに救われました。
■サーフィンがしたくて戻った本土。でもまたどん底に。
宮古島で英気をもらって、好きだったサーフィンの仕事がしたいと思い始めます。
宮古島で2年ほど経ったあと、湘南に行きます。
湘南のサーフィンの会社に、長文の作文を提出。働かせて欲しいと懇願しました。
念願かなって、そこの会社で働かせてもらえることになり、そこからは、仕事の合間にサーフィンをするという最高の生活を送っていました。
でも景気が悪くなり、会社を退職せざるを得なくなりました。
地元の秋田に戻った私は、秋田でもサーフィンをしながら、偶然拾われた社長の会社でお世話なりました。
そして、起こったのが東日本大震災。
私も福島県に行き、復興支援に携わりました。この世のものとは思えない壮絶な光景。
復興支援の難しさにも直面し、すごい経験をさせてもらいました。
その頃一緒に住んでいた彼女がいました。
実は、その彼女が私名義でたくさんの借金をしていたことが判明。
仕方なく昼間の仕事とは別に、夜はラーメン屋でバイト。仕事漬けの毎日でした。
ラーメンにのめり込んだ私は、暖簾分けしてラーメン1本で生計を立ててやる!と決意。
でも、そのことを彼女に告げると、彼女は出ていってしまいました・・・。